「何かをわざわざ主張するということは、多かれ少なかれ既存の何かに対する違和感の表明であったり異論反論の性質を帯びるわけで、その主張に対しては、当然ながら既存の何かからの異論や反論が待ちかまえている。個人的な必然性は社会的な必然性との軋轢によって生まれるし、それは新しい軋轢を必ず生む。好むと好まざるとにかかわらず、個人的な必然性に基づくあらゆる主張は、既存の何かに対する宣戦布告であり、ある体制に対する闘争の開始を意味する。だから、文筆には闘争を闘い抜くための心身の強さが求められる。」(樋口恭介)
エゴサ地獄やいいね中毒。
そして「他人を許せない」正義中毒によるバッシングや誹謗中傷から起きた木村花さんの自殺であり、樋口恭介さんの隠遁だ。
俺達はプラットフォームの奴隷だ。
「Facebookは最悪のソーシャルメディアである」(ベルナール・スティグレール)
ソーシャルメディアからのEXITを真剣に考えなければならない。
千葉雅也はかつて「全身ヴィトンの男」とツイートした。
俺達は既存のコードの枠組みのうちで享楽する。
今や俺達は予め企業によって用意された枠組みや箱庭の中でしか遊ぶことができない。
ゲーム、YouTube、音楽、映画、TV、読書、漫画、アニメ、スポーツ、ファッション、化粧、コスメ、ギャンブル、料理、旅行、その他娯楽とされるものあるいは人間の活動全て。
「クリエイティブ」「イノベーション」の重要性が盛んに喧伝されているが、無から工夫して遊ぶということがない。
楽しむための工夫をしない。
いや、できないように営利企業によって仕向けられている。
全てが自己顕示であり、自己慰撫であり、広告でしかない。
情報の過剰と飽和。
資本主義によるデジタルな汚染が人の心の中まで、無意識までをもコントロールしている。
資本がウェブでの動力源だ。
要するに金だ。
俺達は自己の欲望、セクシャリティ、アイデンティティ、思想、そして信仰ですら営利企業によって営利企業の都合の良いように統制され、刺激され、条件づけられ、管理され、コントロールされている。
しかしそのことを告発する身振りも同じく営利企業であるTwitterやFacebookといったプラットフォーム上でなされているという自己撞着に陥っている。
いみじくも仲山ひふみさんが仰ったように「(最後に)笑うのはプラットフォームのみ」。
この告発もそうした自己撞着、自己欺瞞から逃れられない。
ソーシャルメディアからのEXITあるいは解脱は可能だろうか。