カテゴリー
現代詩

祝日

草間小鳥子

詩人

求めるものが

知識では補えないことを知り

噴水を見ている

繋がれた犬も噴水を見ていた

(素晴らしい動物だ

目の前にないものを怖れない)

犬は花梨の幹に繋がれている

花梨の枝には賢い目をした百舌がいて

百舌を横目に若い猫が風を嗅ぐ

わたしたちは

生産性ではかれない生き物

他者との価値の交換で生きる

矛盾した有機物

足早に行き過ぎるひとの靴音に責められ

それでも

向かい風をただ逃がす

考えない肢体を肯定したいと思う

犬と木と鳥と猫とならんで

見えない部分へ耳をすます

やまない水音

かけがえのない暇

たったいま

遠くでとどろいた

透明な銃声 晴れた日

カテゴリー
現代詩

シンシア

草間小鳥子

詩人

シンシア

誰のものでもない小部屋

大きな窓ひとつ

白木の椅子ひとつ

カーテンが揺れると

甘い風のにおいがした

子どもたちが

入れかわり立ちかわりやってきては

ひとつだけ

そっと窓辺へ置いてゆく

それは本 それは枯れ枝

やわらかい靴 貝殻 欠けた食器

菓子箱に入った死んだ鼠

どれもしずかにつめたく

日ざしを浴びてほがらかだった

たったひとつの感情をたたえて

なんと呼ぶのかわたしは知らない

それほどに幼かった

シンシア

居心地のよい部屋

わたしには置いてゆくものがない

決まった呼び名さえ

朝にはまあたらしい服へ袖を通し

夕暮れになれば脱ぎ捨てた

ある朝

子どもがひとり背を向けて

椅子に腰かけている

昨日までわたしのものだった

あたらしい服を着て

(シンシア)

押し付けられた呼び名を窓辺へ置き

はだしで部屋を出た

不意打ちのように失った

なにも持っていなかったはずなのに

ひろい窓が

朝の光へ埋没してゆく

それはたんなる明るさで

手をふるようにカーテンが揺れた

シンシア

時は流れた

たったひとりだ

手に入れるときも

手放すときも

カテゴリー
日常

2022-1-2 Shimokitazawa

On my way back to my parents’ house today in Shimokitazawa, I saw a very cool girl with bleached blond hair, wearing an oversized black Champion down jacket, dark gray sweatshirt cargo pants or sarouel pants, and stiff black boots, reminiscent of underground rap. Her fashion sense was amazing. That’s Shimokita.

今日の実家への帰り道の下北沢でchampionのオーバーサイズの黒いダウンジャケット、ダークグレーのスウェット製だろうカーゴパンツあるいはサルエルパンツ、ゴツい黒いブーツをした、アンダーグラウンド・ラップを彷彿とさせるとてもカッコいい女子が金髪の女の子と一緒に歩いていた。ファッションセンスものすげぇ。さすが下北。

カテゴリー
日常

EXIT from Social Media (test post)

「何かをわざわざ主張するということは、多かれ少なかれ既存の何かに対する違和感の表明であったり異論反論の性質を帯びるわけで、その主張に対しては、当然ながら既存の何かからの異論や反論が待ちかまえている。個人的な必然性は社会的な必然性との軋轢によって生まれるし、それは新しい軋轢を必ず生む。好むと好まざるとにかかわらず、個人的な必然性に基づくあらゆる主張は、既存の何かに対する宣戦布告であり、ある体制に対する闘争の開始を意味する。だから、文筆には闘争を闘い抜くための心身の強さが求められる。」(樋口恭介)

エゴサ地獄やいいね中毒。
そして「他人を許せない」正義中毒によるバッシングや誹謗中傷から起きた木村花さんの自殺であり、樋口恭介さんの隠遁だ。
俺達はプラットフォームの奴隷だ。
「Facebookは最悪のソーシャルメディアである」(ベルナール・スティグレール)
ソーシャルメディアからのEXITを真剣に考えなければならない。
千葉雅也はかつて「全身ヴィトンの男」とツイートした。
俺達は既存のコードの枠組みのうちで享楽する。
今や俺達は予め企業によって用意された枠組みや箱庭の中でしか遊ぶことができない。
ゲーム、YouTube、音楽、映画、TV、読書、漫画、アニメ、スポーツ、ファッション、化粧、コスメ、ギャンブル、料理、旅行、その他娯楽とされるものあるいは人間の活動全て。
「クリエイティブ」「イノベーション」の重要性が盛んに喧伝されているが、無から工夫して遊ぶということがない。
楽しむための工夫をしない。
いや、できないように営利企業によって仕向けられている。
全てが自己顕示であり、自己慰撫であり、広告でしかない。
情報の過剰と飽和。
資本主義によるデジタルな汚染が人の心の中まで、無意識までをもコントロールしている。
資本がウェブでの動力源だ。
要するに金だ。
俺達は自己の欲望、セクシャリティ、アイデンティティ、思想、そして信仰ですら営利企業によって営利企業の都合の良いように統制され、刺激され、条件づけられ、管理され、コントロールされている。
しかしそのことを告発する身振りも同じく営利企業であるTwitterやFacebookといったプラットフォーム上でなされているという自己撞着に陥っている。
いみじくも仲山ひふみさんが仰ったように「(最後に)笑うのはプラットフォームのみ」。
この告発もそうした自己撞着、自己欺瞞から逃れられない。
ソーシャルメディアからのEXITあるいは解脱は可能だろうか。

カテゴリー
日常

EXIT from Social Media (test post)

“The fact that we take the trouble to assert something is more or less an expression of our sense of discomfort with something existing, or an objection to something existing. Personal necessity is born out of conflicts with social necessity, which inevitably leads to new conflicts. Whether we like it or not, every assertion based on personal necessity is a declaration of war against something existing, the beginning of a struggle against a system. Therefore, writing requires the physical and mental strength to fight through the struggle.” (Kyosuke Higuchi)

Egotistical hell and nice addiction.
Hana Kimura’s suicide and Kyosuke Higuchi’s seclusion occurred because of the bashing and slander caused by the justice addiction that “cannot forgive others.”
We are slaves to the platform.
“Facebook is the worst social media of all.” – Bernard Stiegler
We need to seriously think about EXIT from social media.
Masaya Chiba once tweeted, “There was a full-body Vuitton man.”
We revel within the framework of existing codes.
Now we can only play within the frameworks and boxed gardens prepared beforehand by corporations.
Games, YouTube, music, movies, TV, reading, comics, anime, sports, fashion, makeup, cosmetics, gambling, cooking, travel, and anything else that is considered entertainment or human activity.
The importance of “creativity” and “innovation” is being touted, but there is no such thing as playing with no ingenuity.
We do not devise ways to enjoy ourselves.
No, they are made to do so by commercial companies.
Everything is just for self-expression, self-complacency, and advertising.
Information overload and saturation.
The digital pollution of capitalism is controlling our minds, even our unconscious.
Capital is the power source of the web.
In short, money.
Our desires, our sexuality, our identity, our thoughts, and even our beliefs are controlled, stimulated, conditioned, managed, and controlled by for-profit corporations for their convenience.
However, the gestures of denouncing this are also made on platforms such as Twitter and Facebook, which are also for-profit corporations, and this is a self-contradiction.
Unfortunately, as Hifumi Nakayama said, “the only one who laughs (in the end) is the platform.”
There is no escaping such self-contradiction and self-deception in this accusation.
Is it possible to exit or break free from social media?

カテゴリー
現代詩

湖の島

草間小鳥子

詩人

踏み出せば、前ぶれもなく湖
澄んだ湖水にくるぶしまで浸る
昨日までは町だった
わたしは町を愛せなかったし
町もわたしを愛さなかったが
かつての空を銀の魚がすべってゆく
干しっぱなしのシャツが暗い水にたゆたい
水は容赦なかったのだとわかった

山の火だからと見て見ぬふりをした
夜のうちに火は
木々を焼きつくし
町を舐め
ついに石まで焼いたのだった
誰かが湖を呼び
ほんとうに水はやって来たのだろう
岸辺のところどころから細く煙がたちのぼる
奪えるものは奪い
火は地中へ潜ったようだ
くすぶる木々から
手のひらを焦がし
森のひとびとが降りてくる
めいめい湖岸であたらしい服を受けとり
風力ヨットへ乗り込むところだ
波紋とともに
よるべなく着岸をくり返す町のおもかげ
問いかけはなく
よいことも
わるいことも
ある日
不意に終わる
わたしは町を愛したかった
つらいことばかりだった小さな部屋と
日当りのよい広場 日曜日の噴水
星のかわりに瞬いていた
知らない窓、窓——

測量はしずかにはじまっていた
裾を濡らしてやって来た光のひとは
わたしのうなじへ物差しをあて
——これからあなたは島です
囁いた時には
もう島になっていた
——小さいけれど美しい島です
水平線の彼方ににじむ
いくつもの帆影
じき船が着く
深く息を吐き
両の手をひろげた
もう一度すべてを
あたらしく迎えるために

カテゴリー
短歌

短歌は一行対話〈スティコミューティアー〉ではないことに悩みながら書いたエッセイと連作の間の何か

朽木祐

歌人

『鴉と戦争』

ソフォクレスの『アンティゴネー』を読んで少しばかり考へたので、けふは簡潔に筋を紹介しながらそのことについてお話ししたい。

経緯はとうに運命、知らざれば鳴けよ鳴くのだ鴉よ歌を

 オイディプスの冒険は彼を父にした。

向日葵の暗くうつむく花序のその褒賞つまり王位簒奪

 冒険の報償はテーバイ市の王位と母との臥所。オイディプスの母はオイディプスの息子二人と娘二人を産んだ。娘アンティゴネー曰く、呪われた臥所。

父が拠るその杖常に新しく且つ又古き戦争の笏

 その義弟クレオーンはオイディプス王の罪を庇ひ、娘ら二人を庇護することも、王自らの追放の願ひをも聞き届けた。名君であり神を敬うこと篤実だつたその振る舞ひを引き写すかのやうに。しかしその同じ男は、神話の時間軸での後日談である『アンティゴネー』では叛神の振る舞ひに及びオイディプスの娘アンティゴネーを破滅させた。報ひに家族を失ひ、ひいてはテーバイ市の滅びまでも呼び込むことになる。

花とし言へば地上の花を苅り尽くす父よあなたの甲高きこゑ

 兄弟で別れて殺し合ひ戦死したオイディプスの息子の埋葬をクレオーンは死刑を以つて禁じ、アンティゴネーはその禁を破り、テーバイ市の裏切者として野に打ち捨てられてゐた兄の亡骸を弔つた。「あの人は私が葬ります。それをして死ぬのは美しいこと。あの人と共に、愛しい人と共に、愛しい女として横たわりませう」とまで宣べて。

微かにも吹かない風を動かずのあなたの上に散らばる粒子

 捕はれ、王の面前に引き出された彼女は死せる兄を愛し敬ふことがゼウスの法に則ることを言ふ。王権の正義と権威争ひに全て動機付けて考へる王はこれを神の名を僭しての王権への反逆としか理解しない。一行対話〈スティコミューティアー〉の応酬のすゑ、私達は憎しみ合ふためではなく愛し合ふために生まれてくると彼女は叫ぶ。

どれだけの星が滅んだ後でなら兄よあなたと一つの土に

 地上の人間の事情には精通しても思考がその範疇に縛られるクレオーンと、呪われた出生から生きることに何の得があるかとまで述べるアンティゴネーとでは対話どころか闘争さへ成立する見込みがない。それが本当の所。アンティゴネーは然るべき死を避けることなく、クレオーンその言動を狂気として排除する。そこにはコミュニケーションの意味での対話がない。

精神を死者の胎へと射つのです それで今夜はもう寝るのです

 ギリシア悲劇は当時、役者が仮面を着けて演じた。personaの語源であると言ふ。『オイディプス』のクレオーンと『アンティゴネー』のクレオーンが同じ仮面を使ひ回して演じられただらうか。まさか。

父君よあなたのかほにのしかかる重力、死者の手に引き摺られ

 アンティゴネーの疾走をどう感受するか。英雄ではあるだらう。しかし、呪われた出生に傷付き死に取り憑かれたとも、出自の苦難を経て高次の倫理を備へた達人とも言へさうなそれを、どう考へるのか。アンティゴネーを称へること。それは傷付いた人を傷付いてゐるから愛でることから、どれだけ遠いことなのか。出生に先立つ呪ひを自ら引き受けるその振る舞ひを、出生を同じくする妹イスメーネーの凡庸さと比べて、気高さゆゑにこそ自己犠牲は成つたと言ふこともできる。だが、先に引いた兄への執着の強さが、彼女に傷付いた愛、現世では成就し得ない愛といふ造形をもたらしてゐる。彼女を称へることは、男性の過ちに傷付いた女性をそれ故に愛すことと紙一重ではないか。

蔓薔薇を編んであなたに渡したい あなたみたいに血を流せない(朽木祐『鴉と戦争』)

 クレオーンの子ハイモーンはアンティゴネーの許嫁であり、アンティゴネーの死刑を撤回させるべく死を賭して説得を試みる。それは愛が動機であつたにせよ、父の横暴を指摘する地上の論理、政治の言葉を駆使してのものだつた。それゆゑにか、クレオーンは遂に為政者としても視野狭窄に陥り、息子の闘争を情欲に溺れる故の反抗としか見なさなかつた。斯くしてクレオーンはエロースを敵に回してしまつた。彼に味方する神はもうゐない。

魂を孕む行為をしてゐたら射落とせよその光るつがひを

 ハイモーンの愛が許嫁どう受け取られてゐたかについてソフォクレスのテクストは直接語らない。だが少なくとも、幽閉の岩窟にハイモーンが到達したとき、既にアンティゴネーは与へられた餓死の結末ではなく縊死を選択をしてゐた。彼女はハイモーンの闘争も救出も端から期待しなかつたのではないか。ソフォクレスの答へはこのあたりにあるやうにも思へる。

参考人質疑さんかうひとじちうたがひの虜囚のすゑに姫首括る

カテゴリー
批評

狂気と似姿(1)

梅田径

国文学研究資料館プロジェクト研究員
早稲田大学文学部非常勤講師
早稲田大学日本古典籍研究所招聘研究員

『六条藤家歌学書の生成と伝流』(勉誠出版、2019)

一 音律\制約

 五七五七七。言語相を異にする人々にとって、わずか三十一音に凝縮された――しかし膨大な例外的な逸脱を含んだ――短歌が音声律に由来する快楽を基盤に1300年の長きにわたって受容され続けてきた事は、驚異にも奇異にも思えるかもしれない。

むろん韻文の歴史と変容は平坦な道ではなく、近代には「和歌から短歌へ」というアトリビュートの巨大な転換が起こった。それでも、日本語の韻文が五七五七七のシラブルを棄てることはなかったのだ。

 和歌の翻訳に目を向けてみてもいい。英語圏においては詩の形式を模倣することで和歌の再現がなされてきた。四行詩、あるいは五行詩、自由韻。どの形式が適切であるかは議論があるにせよ、音韻的な美は内容や修辞にさえ優先される短歌の本質とみなされるのだ。

 和歌が短歌に脱皮する以前、というよりも〈短歌〉なる詠作内容が近代歌人に発見される以前、和歌は矮小にすら見られてきた季節や恋愛や年中行事を描くものとみなされてきた。和歌の本質は内容ではなく表現にある。翻訳なり短歌としての継承なりの根幹に〈韻律〉を求めることも故ないことではないだろう。実際、現存する和歌は近世以前に限っても十万首を優に超えるが、明治以来の歌人たちはその中から「読まなくても歌は何か」を血眼になって選別していた。

二 探索と批評

 和歌は和歌らしさを遵守するために有形無形の制約を遵守する必要があった。近代歌人たちはそれに退屈を覚えた。だが、その退屈さこそ和歌の本質である。前近代においては、その制約内で機能する詞続き(コロケーション)がどれほど可能であるかが真面目に探索されていた。制詞と呼ばれる作者固有のフレーズに対する禁忌から、縁語の的確な使用や、不適切な歌語、意味不明な表現、不愉快で無礼な表記を避けるためのマナー講座じみた作法まで、和歌を和歌たらしめる制約は、師礼や教育の根拠とすらなった。和歌の宗匠は非礼な歌を訂正し修正することで生活の糧を得ていたのである。なればこそ、正統的で真性な和歌表現の探求は、非礼も無礼も存在しない現代日本においては無意味とみなされる。和歌の表現分析の技法は、国語学では文法から意味論までの蓄積として現代に連なる研究成果とみなされるが、文学においてはさして香味のないスパイスのような扱いに留まるだろう。

 和歌の実作がいつから始まったのかは判然としないが、和歌における批評理論の導入は『歌経標式』の成立を以て嚆矢となる。772年勅命によって成立した本書は、歌病と歌体についての論が、漢詩の作法を和歌に転用することで成り立たせた暴論による。一時は偽書説も有力であったが、まだ平仮名として使われない萬葉仮名表記(正確には上代特殊仮名遣い)の適切性によって奈良時代末期の作と認められる。

 『歌経標式』は和歌の中で使われるべきではない規則(歌病)と、読まれた際に目指すべき雰囲気(歌躰)の規定によって描かれる。規制と到達の両方を示そうとした本書は、感性と音律のみの和歌世界に、批評的な秩序と制約をもたらそうとした最初期の試みであり、呪縛と祝福の両方を韻文の歴史に刻みつけた歌学書であるが、その評価は高くはない。

三 似姿と人体

 さて、和歌についての学問を「歌学」といい、和歌についての所論を「歌論」と呼ぶやや古めかしいフレームに準じていうならば、奈良時代に遡る上代歌学は多く類型的な表現の制約を――つまり「歌学」を――論じながらも「歌論」を指向していた。

 勅撰という絶対的な権威を有した(とされる)『歌経標式』の所論は漢詩の作法を日本語に適用したものであり、文学の理論としては成立しても実作の上では桎梏にしかならなかった。しかし「歌躰」にせよ「歌病」にせよ、近世にいたってなお、和歌に携わるものの基礎知識として保持された。定家の時代では『三体和歌』のように、歌躰ごとに詠みわける試みまでなされていたことを思えば、和歌の「躰」に関わる関心は詠作技法よりも強かったと言える。

 「歌躰」とは歌の姿を表現したものである。というより、和歌があるべき姿を示した規範である。『歌経標式』では大綱として「歌病」が七、「歌躰」が三、示される。そうした規範学的な要素が何によって構築され、どのような思想を庶幾したのかは、その膨大な研究によっても、多くの歌学書の解説を読んでもはっきりとはしない。

 はっきりしているのは、和歌には様々な〈からだ〉があるということだ。一首の統合的な完成度を人体に見立てたことと、その評価を美しさではなく多種の指向性を「歌躰」と規定したことは、日本詩歌が言語であるより人体であるという比喩の可能態を広げた。人間の似姿たる和歌は人以上に人を表現しうる。

 ただし、こうした歌躰論に複雑な哲学的背景を読み込むことは深読みであろう。たとえば「長高躰」が「丈高き」姿を実現すると述べた時、それは長・高という空間的要素に分節される神学的な高度を示すわけではない。その例歌に直接「峰」や「雲」が読み込まれており、峰にかかる雲は空間の長・高を直接的に示す。一首に織り込んだ表現が半ば自動的に歌躰を規定してしまう。自動化された詩的表現こそが「歌躰」が示そうとした和歌のあるべき姿なのだ

 院政期(およそ12世紀ごろ)以降、和歌の姿の変転は漢詩におけるそれと同工であり、30年ごとに変容する唐代漢詩の世界と同じように時代と共に変わると歌人たちは考えた。だからこそ、和歌が和歌であるためには構成要素が的確に配列され、適切な言葉続きによって特定の「姿」に到達することが求められた。短歌を指向した近代歌人たちとって、このような自動化された表現が「文学」の一隅にいたことは許しがたい恥だった。短歌躰論が規定してしまったあるべき姿を受け入れるか、否定するかが短歌と和歌の断絶を決定的なものにしたと乱暴に述べておくならば、まさしく上代歌学以来の「歌躰」、中世の「姿」といった詩の人体への見立ては、作家・作品・読者によって成り立つ近代的な詩歌世界が撃滅すべき対象ですらあったのだ。

四 歌病と精神病

 「歌躰」と同様に重視されたのが「歌病」である。藤原清輔は『奥義抄』に「歌病には種々あるが、現在において実効性があるのは同心病だけである」と書き残した。同心病とは、同じ表現が登場する現象をさしたものである。歌病は歌躰と違い、あるべき和歌の躰を直接的に示すものではないが、絶対に避けるべき禁忌でもない。

 むしろ歌躰に準じた歌であっても「病」を持つことがある。本来的に詞のつながりである和歌が「姿」をもち、「病」に犯されるという認識。ラカンであればそれを精神病と名指すだろう。和歌とは「姿」をもち「病」にかかる生体であり、それが未完成である\失敗作である\無意味であることは精神病を患った狂気として顕現してしまう。そして狂気に犯されたモノが秩序ある人界にいることを歌論は許さない。

 和歌がどれもこれも一定似通っているように見えるのは、この生体として和歌の認識を根源とするはずだ。和歌とは則ち人である。人とは遺伝子配列を原理として、生体の構造による似かよった姿をもった正規分布に従う群体である。人は人である限り、天地の間に存在する類似した特徴をもつ生体として間世界に存在が許される。

 ならばこそ、歌論は人間社会――天皇制と律令制度――の権力布置を追認する世界を体現する和歌を言祝ぐものでなければならなかった。この世界における実態でなければならなかった。和歌とは則ち人であり、人はすなわち天と地の間にある生体なのである。天にのぼることも、地に潜ることも許されない。歌論が庶幾する世界の均衡は、生物学や医学にすら近い理想をもつ。和歌の表現とは間環境の秩序を成り立たせる祝言でなければならない。和歌の技法とは正規分布に従うはずの群体を、病をもつことのない姿で生み出す手法なのである。

五 病院

 上代歌学以来の「歌躰」と「歌病」はこうした和歌の存在的様相を根幹から定義づけるシステムとして機能してきた。例えるならば病院として機能することを目指してきた。〈普通の人〉としての和歌のあるべき姿を規定し、平凡で普通の秩序を維持することを目的とした

 もちろん和歌は言語であるかぎり、発話主体が存在するかぎり詠唱可能な無限数の呪文として存在しうる。しかし勅\私の撰集がしばしば「詠み人知らず」「題しらず」として、作者も詠作状況も不明な和歌を掲出するとき、その匿名性が選択される無数の状況を勘案してなお、人無き世界において自立しうる生体として和歌が存在することを示している。それに不気味さを覚えるのは私だけだろうか。

 『古今集』を始発とする勅撰集の仮名序\真名序では、和歌は鬼神から無機物までを順化する言語の効果として存在していることになっている。だが『古今集』の序で述べられる「言の葉」は、植物が自動的に生み出す成長の結果としての〈葉〉ではなく、人間の意思(心)によって詠まれる他律的な音波である。和歌が間環境への介入をもってその存在意義を示そうとする時、鬼神や蛙や石の世界の側が自律した和歌によって安定化した空間として理解されている。和歌の効果とみなしている表現は、人界を超えて世界に作用しうる言語ではなく、和歌世界における歌〈人格〉による介入なのではないか。

 だから、和歌は病があれば添削によって治癒し、姿が整わなければ棄却される。優れた歌を詠まない人が精神病とみなされなかったのは幸いなことだった。必要がなければ創造主たる歌人すら忘れられ、匿名歌人たちの〈心の種〉は〈言の葉〉に乗っ取られてしまうだろう。歌論の病院は自律した普通の和歌が普通にあることを庶幾し、そのうち優れた和歌を生み出す技術を求めるようになった。だが、当然、三十一字の情報価しかもたない和歌は決して人体たり得ない。人間を構成しうる情報素をもたない。そして世界に直接介入することもできない。

 だから、和歌は自らが世界を動かす主体であるという考えを中世の中頃には放棄せざるを得なくなる。和歌として和歌の自閉的な言語世界における美的鑑賞を目的として試行を繰り返すことになった。そこに宮廷・武家・商家を巻き込んだ文化的な象徴闘争が歴史に長く組み込まれたことが、和歌の歴史にとってどのような意味を持ったかは贅言を要すまい。

六 和歌の終わりと本歌取り

 そうした和歌世界の試行の中で、もっとも成功し、残存した理論が本歌取りだった。和歌の詠作技術と表現の探究は1000年以上の歴史をもつ。現代、それら和歌の芸術論が衒学\蘊蓄以外に参照されることはまずないだろう。歌体論から歌病、そして歌会作法までほぼ全ての和歌の芸術学的な要素が忘れ去られてなお、本歌取りだけは前近代からの継承を以て利用・応用されている。

 なぜ本歌取りだけが残ったのか。本歌取りは唯一通用する和歌文芸の遺物といっても過言ではない。すぐれた詠作技法だからだろうか。それとも和歌が詠まれなくなった歌壇において化石のような過去の産物として保存されるべき価値があるからだろうか。また、本歌取りは歌人の専売特許ではなく、小説家からラッパーまであらゆる芸術関係者が利用するのは、それが和歌を超えた普遍的な芸術理論として確立したからだろうか。答えはいずれもノーだ。

 本歌取りとは何だったのか\何たりうるのか、そして誰に欲望された理論だったのか。このような観点から研究を進める音楽社会学者もいる。あるいはこのように問い返してみてもよいだろう。本歌取りが無かったら、私たちの文学環境はどのように変わっていたのだろうか。

 人が木の股から生まれる訳ではないように、本歌取りの技術も理論も突如として生まれたわけではなかった。その足跡をたどり、本歌取り論へと迫る議論は別の機会とさせていただこう。

カテゴリー
現代詩

隣人家の崩壊

長谷川航

詩人

隣人の遺跡
ぼくたちの遺跡
ぼくたちはそこに収容された
国道4号線沿いの白い家
排気ガス
壁は
灰色の汚染

玄関先には化け物のような紫陽花
入口を塞ぎ
舗装を剥いで根を張った

排水溝のヘドロ
汲み取り式の便所
床下の腐敗

風呂とトイレの電気は黙って
闇を祝福した

天井裏には獣
弱い人間を嗅ぎつけて

ぼくたちを蝕む
狂気の結界

3.11のあと
隣人は去った
結界のない遺跡

ぼくは相続した
このおぞましい遺跡を

シンゾクは法外!!
キョウセイダイシッコウ!
フホウシンニュウ!

遺跡は
イメージの起源

友がシールドに
法を武器に戦った
手もとに残ったのは
カネと戦いのアルシーヴ

カテゴリー
現代詩

喪の終止符

長谷川航

詩人

あのひとはたしかにいた
あのひとはこの世界に殺された
あのひとは地上の天使
ただ存在だけがあった
存在には愛があり
身体があり
顔があり
名前があり
匂いが
……

なぜ詠まれることでしか
存在は救済されないのか
なぜ詠まれることで
救済が殺しになってしまうのか

屍に囲まれて
いまだ詠む

この身体に刻まれるアルシーヴを
爆破しろ!!

嗚呼、
こちらへ

私の代わりに
詠ってほしい
この詩を

そして
私を葬ってください