梅田径
国文学研究資料館プロジェクト研究員
早稲田大学文学部非常勤講師
早稲田大学日本古典籍研究所招聘研究員
『六条藤家歌学書の生成と伝流』(勉誠出版、2019)
一 音律\制約
五七五七七。言語相を異にする人々にとって、わずか三十一音に凝縮された――しかし膨大な例外的な逸脱を含んだ――短歌が音声律に由来する快楽を基盤に1300年の長きにわたって受容され続けてきた事は、驚異にも奇異にも思えるかもしれない。
むろん韻文の歴史と変容は平坦な道ではなく、近代には「和歌から短歌へ」というアトリビュートの巨大な転換が起こった。それでも、日本語の韻文が五七五七七のシラブルを棄てることはなかったのだ。
和歌の翻訳に目を向けてみてもいい。英語圏においては詩の形式を模倣することで和歌の再現がなされてきた。四行詩、あるいは五行詩、自由韻。どの形式が適切であるかは議論があるにせよ、音韻的な美は内容や修辞にさえ優先される短歌の本質とみなされるのだ。
和歌が短歌に脱皮する以前、というよりも〈短歌〉なる詠作内容が近代歌人に発見される以前、和歌は矮小にすら見られてきた季節や恋愛や年中行事を描くものとみなされてきた。和歌の本質は内容ではなく表現にある。翻訳なり短歌としての継承なりの根幹に〈韻律〉を求めることも故ないことではないだろう。実際、現存する和歌は近世以前に限っても十万首を優に超えるが、明治以来の歌人たちはその中から「読まなくても歌は何か」を血眼になって選別していた。
二 探索と批評
和歌は和歌らしさを遵守するために有形無形の制約を遵守する必要があった。近代歌人たちはそれに退屈を覚えた。だが、その退屈さこそ和歌の本質である。前近代においては、その制約内で機能する詞続き(コロケーション)がどれほど可能であるかが真面目に探索されていた。制詞と呼ばれる作者固有のフレーズに対する禁忌から、縁語の的確な使用や、不適切な歌語、意味不明な表現、不愉快で無礼な表記を避けるためのマナー講座じみた作法まで、和歌を和歌たらしめる制約は、師礼や教育の根拠とすらなった。和歌の宗匠は非礼な歌を訂正し修正することで生活の糧を得ていたのである。なればこそ、正統的で真性な和歌表現の探求は、非礼も無礼も存在しない現代日本においては無意味とみなされる。和歌の表現分析の技法は、国語学では文法から意味論までの蓄積として現代に連なる研究成果とみなされるが、文学においてはさして香味のないスパイスのような扱いに留まるだろう。
和歌の実作がいつから始まったのかは判然としないが、和歌における批評理論の導入は『歌経標式』の成立を以て嚆矢となる。772年勅命によって成立した本書は、歌病と歌体についての論が、漢詩の作法を和歌に転用することで成り立たせた暴論による。一時は偽書説も有力であったが、まだ平仮名として使われない萬葉仮名表記(正確には上代特殊仮名遣い)の適切性によって奈良時代末期の作と認められる。
『歌経標式』は和歌の中で使われるべきではない規則(歌病)と、読まれた際に目指すべき雰囲気(歌躰)の規定によって描かれる。規制と到達の両方を示そうとした本書は、感性と音律のみの和歌世界に、批評的な秩序と制約をもたらそうとした最初期の試みであり、呪縛と祝福の両方を韻文の歴史に刻みつけた歌学書であるが、その評価は高くはない。
三 似姿と人体
さて、和歌についての学問を「歌学」といい、和歌についての所論を「歌論」と呼ぶやや古めかしいフレームに準じていうならば、奈良時代に遡る上代歌学は多く類型的な表現の制約を――つまり「歌学」を――論じながらも「歌論」を指向していた。
勅撰という絶対的な権威を有した(とされる)『歌経標式』の所論は漢詩の作法を日本語に適用したものであり、文学の理論としては成立しても実作の上では桎梏にしかならなかった。しかし「歌躰」にせよ「歌病」にせよ、近世にいたってなお、和歌に携わるものの基礎知識として保持された。定家の時代では『三体和歌』のように、歌躰ごとに詠みわける試みまでなされていたことを思えば、和歌の「躰」に関わる関心は詠作技法よりも強かったと言える。
「歌躰」とは歌の姿を表現したものである。というより、和歌があるべき姿を示した規範である。『歌経標式』では大綱として「歌病」が七、「歌躰」が三、示される。そうした規範学的な要素が何によって構築され、どのような思想を庶幾したのかは、その膨大な研究によっても、多くの歌学書の解説を読んでもはっきりとはしない。
はっきりしているのは、和歌には様々な〈からだ〉があるということだ。一首の統合的な完成度を人体に見立てたことと、その評価を美しさではなく多種の指向性を「歌躰」と規定したことは、日本詩歌が言語であるより人体であるという比喩の可能態を広げた。人間の似姿たる和歌は人以上に人を表現しうる。
ただし、こうした歌躰論に複雑な哲学的背景を読み込むことは深読みであろう。たとえば「長高躰」が「丈高き」姿を実現すると述べた時、それは長・高という空間的要素に分節される神学的な高度を示すわけではない。その例歌に直接「峰」や「雲」が読み込まれており、峰にかかる雲は空間の長・高を直接的に示す。一首に織り込んだ表現が半ば自動的に歌躰を規定してしまう。自動化された詩的表現こそが「歌躰」が示そうとした和歌のあるべき姿なのだ
院政期(およそ12世紀ごろ)以降、和歌の姿の変転は漢詩におけるそれと同工であり、30年ごとに変容する唐代漢詩の世界と同じように時代と共に変わると歌人たちは考えた。だからこそ、和歌が和歌であるためには構成要素が的確に配列され、適切な言葉続きによって特定の「姿」に到達することが求められた。短歌を指向した近代歌人たちとって、このような自動化された表現が「文学」の一隅にいたことは許しがたい恥だった。短歌躰論が規定してしまったあるべき姿を受け入れるか、否定するかが短歌と和歌の断絶を決定的なものにしたと乱暴に述べておくならば、まさしく上代歌学以来の「歌躰」、中世の「姿」といった詩の人体への見立ては、作家・作品・読者によって成り立つ近代的な詩歌世界が撃滅すべき対象ですらあったのだ。
四 歌病と精神病
「歌躰」と同様に重視されたのが「歌病」である。藤原清輔は『奥義抄』に「歌病には種々あるが、現在において実効性があるのは同心病だけである」と書き残した。同心病とは、同じ表現が登場する現象をさしたものである。歌病は歌躰と違い、あるべき和歌の躰を直接的に示すものではないが、絶対に避けるべき禁忌でもない。
むしろ歌躰に準じた歌であっても「病」を持つことがある。本来的に詞のつながりである和歌が「姿」をもち、「病」に犯されるという認識。ラカンであればそれを精神病と名指すだろう。和歌とは「姿」をもち「病」にかかる生体であり、それが未完成である\失敗作である\無意味であることは精神病を患った狂気として顕現してしまう。そして狂気に犯されたモノが秩序ある人界にいることを歌論は許さない。
和歌がどれもこれも一定似通っているように見えるのは、この生体として和歌の認識を根源とするはずだ。和歌とは則ち人である。人とは遺伝子配列を原理として、生体の構造による似かよった姿をもった正規分布に従う群体である。人は人である限り、天地の間に存在する類似した特徴をもつ生体として間世界に存在が許される。
ならばこそ、歌論は人間社会――天皇制と律令制度――の権力布置を追認する世界を体現する和歌を言祝ぐものでなければならなかった。この世界における実態でなければならなかった。和歌とは則ち人であり、人はすなわち天と地の間にある生体なのである。天にのぼることも、地に潜ることも許されない。歌論が庶幾する世界の均衡は、生物学や医学にすら近い理想をもつ。和歌の表現とは間環境の秩序を成り立たせる祝言でなければならない。和歌の技法とは正規分布に従うはずの群体を、病をもつことのない姿で生み出す手法なのである。
五 病院
上代歌学以来の「歌躰」と「歌病」はこうした和歌の存在的様相を根幹から定義づけるシステムとして機能してきた。例えるならば病院として機能することを目指してきた。〈普通の人〉としての和歌のあるべき姿を規定し、平凡で普通の秩序を維持することを目的とした
もちろん和歌は言語であるかぎり、発話主体が存在するかぎり詠唱可能な無限数の呪文として存在しうる。しかし勅\私の撰集がしばしば「詠み人知らず」「題しらず」として、作者も詠作状況も不明な和歌を掲出するとき、その匿名性が選択される無数の状況を勘案してなお、人無き世界において自立しうる生体として和歌が存在することを示している。それに不気味さを覚えるのは私だけだろうか。
『古今集』を始発とする勅撰集の仮名序\真名序では、和歌は鬼神から無機物までを順化する言語の効果として存在していることになっている。だが『古今集』の序で述べられる「言の葉」は、植物が自動的に生み出す成長の結果としての〈葉〉ではなく、人間の意思(心)によって詠まれる他律的な音波である。和歌が間環境への介入をもってその存在意義を示そうとする時、鬼神や蛙や石の世界の側が自律した和歌によって安定化した空間として理解されている。和歌の効果とみなしている表現は、人界を超えて世界に作用しうる言語ではなく、和歌世界における歌〈人格〉による介入なのではないか。
だから、和歌は病があれば添削によって治癒し、姿が整わなければ棄却される。優れた歌を詠まない人が精神病とみなされなかったのは幸いなことだった。必要がなければ創造主たる歌人すら忘れられ、匿名歌人たちの〈心の種〉は〈言の葉〉に乗っ取られてしまうだろう。歌論の病院は自律した普通の和歌が普通にあることを庶幾し、そのうち優れた和歌を生み出す技術を求めるようになった。だが、当然、三十一字の情報価しかもたない和歌は決して人体たり得ない。人間を構成しうる情報素をもたない。そして世界に直接介入することもできない。
だから、和歌は自らが世界を動かす主体であるという考えを中世の中頃には放棄せざるを得なくなる。和歌として和歌の自閉的な言語世界における美的鑑賞を目的として試行を繰り返すことになった。そこに宮廷・武家・商家を巻き込んだ文化的な象徴闘争が歴史に長く組み込まれたことが、和歌の歴史にとってどのような意味を持ったかは贅言を要すまい。
六 和歌の終わりと本歌取り
そうした和歌世界の試行の中で、もっとも成功し、残存した理論が本歌取りだった。和歌の詠作技術と表現の探究は1000年以上の歴史をもつ。現代、それら和歌の芸術論が衒学\蘊蓄以外に参照されることはまずないだろう。歌体論から歌病、そして歌会作法までほぼ全ての和歌の芸術学的な要素が忘れ去られてなお、本歌取りだけは前近代からの継承を以て利用・応用されている。
なぜ本歌取りだけが残ったのか。本歌取りは唯一通用する和歌文芸の遺物といっても過言ではない。すぐれた詠作技法だからだろうか。それとも和歌が詠まれなくなった歌壇において化石のような過去の産物として保存されるべき価値があるからだろうか。また、本歌取りは歌人の専売特許ではなく、小説家からラッパーまであらゆる芸術関係者が利用するのは、それが和歌を超えた普遍的な芸術理論として確立したからだろうか。答えはいずれもノーだ。
本歌取りとは何だったのか\何たりうるのか、そして誰に欲望された理論だったのか。このような観点から研究を進める音楽社会学者もいる。あるいはこのように問い返してみてもよいだろう。本歌取りが無かったら、私たちの文学環境はどのように変わっていたのだろうか。
人が木の股から生まれる訳ではないように、本歌取りの技術も理論も突如として生まれたわけではなかった。その足跡をたどり、本歌取り論へと迫る議論は別の機会とさせていただこう。